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事件検証
その一「内山彦次郎暗殺事件」 |
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事件日時:旧暦・元治元年5月20日戌の刻
(新暦1864年6月23日20時頃に相当) 事件場所:大坂・天神橋の上 南詰 死亡者:内山彦次郎之昌 暗殺者:? 新選組犯行説のある大坂西町筆頭与力・内山彦次郎暗殺事件。ここでは、 最新 研究をまとめたいくつかの書籍を参考に、新選組犯行説の誤りを検証して みよう。 |
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| 〔1〕内山彦次郎とはどんな人物? | ||
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内山家は代々、天満(注・大坂の地名)与力の家系であり、文化10年(1813年)、17歳の彦次郎は御用日見習として与力への道を歩み始めた。
同じ大坂でも東町奉行所の与力であった大塩平八郎が天保8年(1837年)に起こした「大塩の乱」の際、その鎮圧に功績をあげた。また、幕府指示の御用金徴収、いわゆる「天保の御用金」で活躍した。天保14年(1843年)に大坂西町奉行所の筆頭与力となった。 文久3年(1863年)8月8日、内山に対する天誅予告が大坂の難波橋に張り出された。綿栽培の重要な肥料であり、油としても利用されていた干鰯(ほしか・干したイワシ)の価格操作に関連した人間であるという理由であった。 内山の上司であった西町奉行・久須美佐渡守は「大阪出生の者にてありながら身元宜しき町人共と懇意に仕らず、役所にて御用向申談の外一切彼等を私邸に引き入れず。」と内山について書き残している。 |
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| 〔2〕なぜ暗殺されたの? | ||
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なぜ殺されたのかを考える前に、暗殺後に張り出された張紙や、当時の記録を見てみよう。 野口武彦『新選組の遠景』(集英社)より |
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内山彦次郎 右、この者天下姦賊により昨夜戌ノ刻、天神橋において誅戮加へ、梟首せしむべきところ、折節市中町廻り罷り越し、よんどころなく残念ながら、その儘打ち捨て置き候事者。同人嫡子、ならびに大森・八田、所業改まらざるにおいては同じく罪に行ふ者なり。 五月二十一日 (『幕末維新大坂町人記録』清風堂出版、1994年) |
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菊地 明『幕末天誅斬奸録』(新人物往来社)より
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天満西町組与力 内山彦次郎 このもの義、累年驕慢増長、天下(を)憚らざる所業(を)もって不誠の贅言を操り、愚民(を惑わし)、私欲を逞しく図り、我が姑息にて政事を曲げ候段、はなはだもって不届きの次第、これにより昨二十夜、天神橋上(に)おいて天誅に代わり殺賊(戮)せしもの也。 (『藤岡屋日記』鈴木棠三・小池章太郎編 三一書房) |
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一番目の『幕末維新大坂町人記録』からの引用は、内山の死の翌日に張り出された罪状書を記録したものであり、二番目の『藤岡屋日記』のものは、大坂・日本橋に張り出された内山暗殺に関する罪状書を記録したものである。暗殺犯は数箇所に罪状書を張り出し、内山暗殺が正義であることを民衆にアピールした。 一番目の罪状書の重要な点は、「同人嫡子、ならびに大森・八田」に対し、殺人予告をしている点である。内山家は代々与力の家系であるので、嫡子も順当に行けば彦次郎と同じように与力の花道を邁進する将来が有る。また、大森・八田は内山と同じく与力である。与力は現代で言えば警察官キャリアに相当するわけであり、そのような人間が暗殺されたり殺人予告されたりするような社会というのが、如何に不安定で危険であるかは平和ボケした現代人にはわかり難い。 実際に、内山暗殺事件の二ヶ月前に助右衛門橋に晒された首は同じ大坂の東町奉行所の与力・北角源兵衛であったという説があり、これが事実ならば短期間に二人の与力が暗殺されたということになる。正に世情不安、ここに極めりという状況であった。 二番目の罪状書には内山の与力としての働きに対する不満が述べられており、それが殺害する理由であることを明らかにしている。 この罪状書における注目すべき部分は「累年驕慢増長」と書いている点である。つまり、犯人は「累年」の内山の所業を認知しているということなのだ。 もし、新選組が犯人であったとしたら、内山が殺害される前年に初めて京都に来たような関東人(=近藤達)が暗殺を決断するに至るほど、京都ではなく在大坂である内山の「累年」を熟知し得ただろうか? 内山はその所業を罪状書にて糾弾されるように、当時の庶民の記録に彼に関する悪評がいくつか書かれている。しかし、腐っても与力である。一番目の罪状書にて他の与力も名指しされているように、目的は与力という職業の者を殺害する事であり、庶民の味方にかこつけ不正者を退治するというのはあくまで真の目的の隠れ蓑でしかなかったのではなかろうか。不正のとばっちりを受けていた庶民は喜んだだろうが、幕府権力の末端である与力が殺害されるという事態は為政者側(=幕府)の非力さを庶民に印象付け、地域の無法地帯化を促進し、為政者の大衆コントロールを不能にする。まさにそれこそが暗殺犯の思惑だったと見るべきだろう。 |
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| 〔3〕犯人=新選組はあり得ない | ||
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この暗殺事件に、上記で述べたような地域の無法地帯化促進という思惑が潜んでいたのだったとしたら、治安維持活動を行っていた新選組が犯人であるというのはおかしな話である。内山を殺しても、新選組には何らメリットはないだろう。 こんなおかしな説がどこから出て来たのかと言えば、西村兼文の『新撰組始末記』(明治22年初版)からである。西村の書くところによれば、近藤勇の内山に対する個人的な恨みが殺害の動機ということだが、この恨みを近藤が抱くようになった原因が内山暗殺の前年に起きたある出来事なのだそうだ。 文久3年(1863年)6月3日、壬生浪士組(新選組の前身)と大坂の力士達との喧嘩の一件を近藤が奉行所に届けた際、対応した内山の言動が侮蔑的であった事を近藤が根に持ち、ついに翌年、沖田・原田・永倉・井上を暗殺者として遣わしたというのが西村の記述である。 前出の野口も菊池も自著において、この西村の記述の信憑性を否定している。否定の理由について詳しく知りたい場合はそちらを御一読いただくとして、ここでは奉行所へ出された届けを見てみたい。 宮地正人『歴史のなかの新選組』(岩波書店)より |
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口上覚 浪士八人 右の者、今申の刻、小舟相乗申れ水稽古に出船仕候処、流に随ひ下筋え相下り、俄に病発いたし候者有之に付、右家え立寄、尚手当も可致と上陸致、当地道筋不案に付、彼肯相迷ひ、何町何家に御座候哉、立寄手当致居候処え、何者由分不相知、裸体にて頭巻いたし、手頃の棒携、理不尽に打ち掛り候間、不得止事、素より此方水稽古ゆへ、撃剣稽古着・小剣のみ御座候得共、則抜払打合候処、先方八、九人程薄手負候哉奉存候、夫より狼藉物逃去候、味方は手疵を請候者壱人も無御座候、素々此方真義稽古着・小脇差ゆへ、彼方より仕懸候ニ付、不得止事、右の仕合御座候間、宜 御察可被下候、 万一今宵ニも彼方より者共徒党いたし、此方旅宿え罷越候へば、聊 用捨なく打果可申心得御座候、此段、為念御届ヶ 奉 申 上 候、以上 壬生村詰 浪士惣代 六月三日夜 芹沢 鴨 近藤 勇 大坂東町 御奉行所 (『コンパクト版新選組史料集』新人物往来社編 新人物往来社 1995年刊127-128頁) |
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一見してわかるが、届け先は「大坂東町 御奉行所」である。そして、内山は「西町」の与力である。つまり、力士達との喧嘩事件において、近藤と内山の接触はなかったのだ。ゆえに西村の書く内山殺害の動機そのものが、近藤に発生するはずがないのである。この一点を見ても、新選組犯人説は立証困難であると言わざるを得ない。 なお、この新選組犯人説を唱えた西本願寺の寺侍・西村の記述について、前出の宮地正人は、西村が京都に戻った慶応元年(1865年)閏5月以前を述べたものはすべて他史料による裏付けが必要であるとの見解を表明している。慶応元年閏5月以前についての西村の記述は、全て他者からの伝聞を基にしたものだからだ。 そして、力士達との喧嘩事件も内山暗殺事件も、慶応元年以前の出来事であった。内山暗殺事件が起こった元治元年(1864年)から、西村の『新撰組始末記』が明治22年(1889年)に発刊されるまで25年の歳月が流れている。この25年間に記された諸文献の中で、内山暗殺事件を新選組の犯行と書き記した史料は現時点で一つも発見されていない。 |
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作成日 2005/05/21