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───「新選組」を考えてみよう!

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史料【御祭草紙】(抜粋)
史料形態:書籍
発表年月日:明治41年1月
執筆者:西村捨三
出版社:大林帳簿製造所



・「御祭草紙」全文ではありません。新選組に関する部分の抜粋です。
・原文は縦書きですが、横書きで表示されます。横一行が原文の縦一行に相当します。
・なるべく原文に使われていた文字に忠実であることを心掛けました。
 原文に旧字が使用されていた箇所はなるべくそのまま旧字でUPしましたが、
 一部、旧字フォントが無かった字は、新字で代用しています。





  それより總督岩倉兄弟は風雪を侵し中山道を下向せ

られ沿道の藩々恐れ入りすへて恭順して兵隊金圓なと差

出すも弱兵は御斷り金はいくらてもと申す姿にて下諏訪

に着せしに是より甲州への分れ道あつて何にか近藤勇甲

州口へ討て出るとの評判あり爲めに板垣参謀一手の兵を

分ち進軍し予等は碓氷峠の本道を取りて進軍したり淺間

山の裾野にて風雪に出逢ひたり三月何日てありしか板橋

に着したり當夜慶喜公は如何なる思召なるやと上野へ潜

行して其恭順一途の思召を伺ひたり御小姓組某なる人に

出逢ひたり錦の袖印付けたる者の江戸一番入りとも申す

へきか其時は櫻花滿開の時節上野は花明三十六僧房と申

すへき夜景今に想像に浮ふなりそれより板橋在陣江戸打

入などの打合もあり三千にも足らぬ官軍中々の擬勢なり

幕府方には評定も多かりしならん四月ニ日といふ日會津

有志者宇都宮邊を横行し關東筋譜代諸侯向背未定云々の

■■■■。。。。。
報ありて官軍板橋勢の内香川敬三大監軍となり彦根揖斐

なとの兵三四百を引率して出勢との事に相成出發せり板

橋より田端を經千住驛に出る道筋藤の花滿開御家人屋敷

又別墅の風雅なるを見受けたり板橋にては午八つ此總督

に謁し千住へは夜分着せしか新選組を近藤勇引率して流

山邊に駐屯する爲めニ三の幕士壯年者に出逢ひたり翌る

三日越谷に至りしに市川流山邊に幕府の壯士脱兵等の屯

するを聞き後顧の念あるを以て越谷より引返し流山に打

■■■■■■。。。
入りたり時に近藤勇幕府より五千石宛行はれ大久保大和

と變名し甲州伊澤の敗兵を纒め流山の長たり官軍の來る

を知らされは釣を垂れなとして居りしか俄の打入大狼狽

し本陣の土藏に駈け入り敵は散亂したり何れよりか勇羽

織袴なと着し異心なき旨を陳し兵器を差出し他の散兵を

説諭にニ三時間に平定に歸すれども敵は千人計りもあり

吾虚實を知らるヽ時は危險なり然るに彦根の小隊長渡邊

九郎左衛門なる者曾て京都施藥院の會議の節近藤勇を見

知り大久保大和は近藤勇なりとの事にて當時勤王有志か

彼新徴組のために捕殺されしもの澤山ありて恨み骨髄に

徹する者共なれは官軍の頭目輩小躍して喜ひ本陣に呼寄

せ切り捨てんとの事なりしも敵中にて此動作萬一行違ひ

を生せは肝腎の宇都宮邊鎮撫の詮なし兎も角越ヶ谷に連

れ爲り處分すへしと越ヶ谷へ連れ歸り翌る日大和は異心

なき旨陳述せしむる爲め板橋總督へ言上すへしとて發覺

者の渡邊九郎左衛門護送せり土方衲叟も同伴せしか其夜

脱歸せり官軍は宇都宮へ進行せしか其後大和に其實名を

暴露せしめん爲め曾て薩人にて新徴組へ間喋に這入りし

者両人官軍中にありしを次の間に扣へさせ大和の異心な

き旨陳辨する處へ唐紙押開き進入し近藤勇計らさる對面

との一言にて詮術なく終に板橋にて切られ京都にて梟木

に掛けられたり東軍にて梟木に掛けられたる者は此者一

人なりき背高く色黒く中肉にて痘痕あり中々落付き拂ひ

たる天晴の武士なりき







当方は新選組研究のプロではありません。
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